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(全国妖怪文庫・第4弾「東西で比較!ご当地妖怪文庫ガイド」)うわん―七つまでは神のうち /小松エメル

kage

2014/10/02 (Thu)

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日本人の妖怪愛は限りなく深い。

歴史を見れば、古代から連綿として、絵に物語にと妖怪を愛し続けてきたのである。

そんな妖怪ダイスキDNAを呼び覚ましてくれる文庫本を紹介しよう。

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各地で生まれ、語り伝えられ、その地域の特徴を映す妖怪たち。

第2弾では、東西各地に伝わる妖怪をディープに知る文庫をご紹介。



アイコンりす今回のBook案内人・・・・Arika


東日本編


野暮と化け物は箱根から先、なんて真っ赤な嘘。東日本にもお化けは立派にウヨウヨしている。日本の民俗学を育んだ東北の豊かな化け物の伝承、そして江戸の町文化が生んだおかしな妖怪たちを、実際の伝承地に、そして書物の中に訪ねていこう。


(全国妖怪文庫・第4弾「東西で比較!ご当地妖怪文庫ガイド」)・・・江戸(東京都)
 うわん―七つまでは神のうち /小松 エメル

うわん―七つまでは神のうち (光文社文庫)うわん―七つまでは神のうち (光文社文庫)
(2013/04/11)
小松 エメル

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Arikaアイコン(小)1 医者小町・真葛が妖怪に命じられた難題とは?

大嵐の日、化け物に魅入られた医師・桂木青庵は病の床につき、息子の太一は妖怪うわんに取り憑かれた。二人を救うには、999の妖を捕まえなければならない。真葛は父と弟を救うため、医師をしながら江戸市中に散らばる妖怪たちを退治していくが……。妖怪時代小説のホープ、待望の新シリーズ。

■主な『江戸』の妖怪

小豆はかり(あずきはかり)
江戸時代の怪談集『怪談老の杖』にある日本の妖怪。姿は現さずに人家で小豆の音を立てる妖怪とされ、音のみの妖怪であることから、ポルターガイスト現象に類するものとの説もある。『怪談老の杖』では、以下のように語られている。その昔ある男が、麻布に住む友人の家に妖怪が出没するという話を聞いた。男は「ぜひ見たい」と言い、友人の家に泊まらせてもらった。前述の特徴の通り部屋を静かにしていると、天井裏を踏み歩くような大きな音がし、続いてあの小豆をまくような音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、挙句にはその音は、一斗(約18リットル)の小豆をまくかのような大きさになった。やがて、天井裏ではなく家の外の庭から、下駄を鳴らす音や、水をまくような音がしてきた。男はすかさず障子を開けたが、庭には誰の姿もなかったという。この妖怪は天井から土や紙くずを落とすこともあるものの、特に悪事は働かないものなのだという。



甘酒婆(あまざけばば、あまざけばばあ)
夜中に「甘酒はござらんか?」と民家を訪ね歩く。これに答えてしまうと、甘酒がある、ないのいずれの返答でも病気になるく。この妖怪の来訪を防ぐためには戸口にスギの葉を吊るすと良いと信じられていたく。かつて江戸では流行病の時期、疫病神である甘酒婆が「甘酒はないか」と言いながらやって来るといわれ、江戸各地に後述のような咳を治める老婆の神像があったことから、子供を抱える母親たちは急いでこの神像を拝んだという。文化14年(1817年)から文政3年(1820年)にも、江戸・京都・大坂の三都や名古屋などの大都市でもこの甘酒婆の噂話が流行しており、人々は甘酒婆の甘酒を売る声に返事をすると流行病を患うといって恐れ、前述のスギの葉やナンテンの枝、トウガラシを門口に吊るしたり、「上酒有」と書いた紙を貼っていた。この噂話は、本来は疱瘡(天然痘)を患うという話が伝聞を経て単なる流行病と変化したものと見られ、このことから甘酒婆とは疱瘡の疫病神である疱瘡神のこととする説もある。また長野県飯田市では、冬の寒い真夜中に、民家の戸を叩いて甘酒を売って歩く者を甘酒婆と呼ぶ。



囲碁の精(いごのせい)
江戸時代の古書などに記述のある囲碁の精霊。妖怪研究家・多田克己の著書においては付喪神の一種とされ、妖怪研究家・村上健司の推測によれば、囲碁の好きな者のもとに現れるものとされる。江戸時代の怪談本『玉箒木』や、林元美『爛柯堂棋話』にある話。江戸の牛込に、囲碁の好きな清水昨庵という者がいた。昨庵があるときに近くの柏木村円照寺(現・東京都新宿区)を散歩していると、色白と色黒の2人組が話しかけてきた。2人と馴染みとなった昨庵が名を尋ねると、色黒の者は山に住む「知玄(ちげん)」、色白の者は海辺に住む「知白(ちはく)」と名乗り、それきり姿を消してしまった。昨庵はこの後囲碁の名人となり、江戸中に敵が無くなったとある。昨庵の出会った2人は、実は碁石の精だったということである。


縊鬼(いつき)
人に取り憑いて首を括らせるとされる。幕末の旗本文士・鈴木桃野の随筆『反古のうらがき』巻一に、以下のように語られている。ある組頭が江戸の麹町で酒宴を開き、ある同心も客の1人として来るはずだったが、なかなか現れない。やがて現れた同心は「急用があるので断りに来た」と言って帰ろうとした。組頭が訳を問いただすと「首をくくる約束をした」と言い、しきりに帰ろうとした。組頭はその同心が乱心したと見て、酒を飲ませて引き止めたところ、やがて同心は落ち着いた。やがて、喰違御門で首吊り自殺があったという報せが届いた。組頭は、縊鬼がこの同心を殺そうとしたものの諦め、別の者に取り憑いた、これで彼に憑いた縊鬼は離れたと考え、再度事情を問うた。すると同心は、夢の中のようなぼんやりした状態だったのでよく覚えていないがと言いつつ、経緯を話した。それによれば、喰違御門のもとまで彼がやって来たところ、何者かが「首をくくれ」と言った。なぜか彼は拒否できない気持ちになり「組頭のもとへ言って断ってからにしたい」と答えると、相手は「早く断って来い」と送り出したのだという。事情を知った組頭が「今でも首をくくりたいのか」と尋ねると、同心は首をくくるそぶりをしながら「あなおそろしやおそろしや」と答えたという。昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、この縊鬼は水死者の霊とされ、これに取り憑かれた者は、川に飛び込んで自殺したくなるもの、などと解釈されている。江戸時代の奇談集『絵本百物語』には「死神」と題した絵があるが、これは悪念を持ったまま死んだ者の霊が、同様に悪念を持った者を首括りなどに遭わせようとしているものとされ[6]、近世の宗教における死神より、本項の縊鬼に近いものと指摘されている。



大猫(おおねこ)
巨大猫の怪異。江戸時代の江戸麻布の瓦版に記録があるほか、同時代の随筆集『新著聞集』などにも記述がある。麻布の大猫を報じた瓦版[1]麻布の大猫麻布・笄町付近の下屋敷のお付きの盲目の針医師が、治療の帰りに消息を絶った。多くの人々が医師を捜しても行方がわからなかったが、何日か後、畑の肥壺で医師が発見され、介抱の末に正気を取り戻した。これを聞いた下屋敷は、狐に化かされたのだろうと狐退治に乗り出し、あちこちから集められた狐釣りの名人たちが、夜ごとに狐を捕えに挑んだ。結果、その1人の農民が捕まえるに至ったが、それは狐ではなく、3尺2寸もの見たことも聞いたこともない大猫で、尾が二股に割れていたという。


海難法師(かいなんほうし)
伊豆七島に伝わる幽霊の一種。地元では“かんなんぼうし”と呼ばれる。水難事故で死亡した者の霊とされる。盥にのって沖からやって来て、その姿を見たものは同様の死に様を晒すと言われている。

起源
海難法師の事の起こりは江戸時代、寛永5年のことである。豊島忠松(とよしまただまつ、豊島作十郎。)という悪代官(八丈島代官)が島民たちを苦しめて、憎まれていたという。そこで島の人々は忠松を殺すために、わざと海が荒れる日を選んで島巡りをするように勧めたのである。まんまと罠にはまった忠松は、言われた通りに海に出て波に呑まれて死んでしまった。それ以来、毎年旧暦の1月24日になると、島民たちに騙されたことを怨む忠松の霊が、海難法師となって島々を巡るのだという。別伝では代官を殺そうとしたまでは同じだが、村の若者25人が暴風雨の夜にそれを決行し、船で逃亡した。しかし、かくまってくれる島や村はなく、さまよった挙句、1月24日に海難事故で全員が死亡した。村人に裏切られ、この世に恨みを残して死んだ怨霊が島々を巡るという顛末になっている。この25人の霊は日忌様(ひいみさま)と呼ばれ、伝承の発祥地とされる伊豆大島の泉津地区にはこの日忌様の祠が祀られている。



金霊、金玉(かねだま、かなだま)
金の精霊、または金の気。厳密には金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある。ここでは金霊、金玉の両方について述べる。鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。



髪切り(かみきり)/黒髪切り(くろかみきり)
人間の頭髪を密かに切るといわれる日本の妖怪。江戸時代の都心部に特に噂が高かったもので、大田南畝の随筆『半日閑話』などにも記述がある。どこからともなく突然現れ、人が気づかぬ間に、その人の髪を切るとされる。人間が獣や幽霊と結婚しようとしたときに多く出現するとの説もある。寛保時代の雑書『諸国里人談』によれば、元禄時代初期には伊勢国松坂(現・三重県松阪市)で、夜中に道を歩いている人が男女かまわず髪を元結い際から切られる怪異が多発し、本人はまったく気づかず、切られた髪は結ったまま道に落ちていたという。同様の怪異は江戸でもあり、紺屋町(現・東京都千代田区)、下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)でも発生し、商店や屋敷の召使いの女性が被害に遭ったという。明治7年には東京都本郷3丁目の鈴木家でやはり、ぎんという召使いの女性が被害に遭い、新聞記事でも報じられている。3月10日の21時過ぎ。ぎんが屋敷の便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは驚きのあまり近所の家へ駆け込み、そのまま気絶してしまった。その家の家人がぎんを介抱して事情を聞き、便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。あの便所には髪切りが現れたといわれ、誰も入ろうとしなくなったという。明治時代以降にザンギリ頭が珍しくなくなるにつれ、次第に人々の心から髪切りに対する恐れは消えていったといわれる。



川天狗(かわてんぐ)
東京都奥多摩、西多摩郡小河内村(現・奥多摩町)、埼玉県秩父地方、神奈川県津久井郡(現・相模原市)、山梨県南都留郡の道志川に伝わる妖怪。天狗の中でも水辺に好んで住み着くものといわれる。東京の小河内村では、多摩川にある大畑淵という大きな淵に住んでおり、人間に危害を加えることはなく、いつも岩の上に寂しそうに座り、物思いにふけっていたという。ある年の春に姿を消したが、その年の秋にまた姿を現し、その隣に1人の美しい天狗の娘が寄り添っており、彼女に膳椀を貸した者は、礼としてミミズが熱病の薬になることを教わったと言われている。また、大河内と氷川の境にある水根渓谷には山天狗と共によく現れ、曇りの日や雨の夜、振袖姿で傘をさし、激しい山崩れの音を立てたという。また、渓谷で人に激しい飛沫の滝を見せたり、激流の音を聞かせることもあるが、この際に道の畦に足を踏み入れて谷を覗き込もうとすると、真っ逆様に川に落とされてしまうという。



倉坊主(くらぼうず)
根岸鎮衛による江戸時代の随筆『耳嚢』巻之九にある江戸(現・東京都)の怪異。原題は「怪倉の事」であり[2]、「倉坊主」の名は『妖怪お化け雑学事典』(講談社)によるもの。本所(現・東京都墨田区)の隅田川近くに数原宗徳という幕府の御用医師が住んでいたが、昔から彼の屋敷の倉には不思議な言い伝えがあった。倉の中に奇妙なものが住んでおり、家人が倉から何か物を出したいときには、そのたびに断りを入れなければ凶事があるとのことだった。その代わり、どの品物を明日欲しいと倉に願うと、翌朝にはその品物が倉の前に揃っているのだった。ある年のこと。数原邸が火事にあったが、なぜか件の倉だけは焼け残った。寝床を焼かれた数原の家来の一人の書生が寝床を求め、この倉に何者かが住んでいても非常時ならば問題ないとして、倉の中を片付けてそこに寝ていた。すると恐ろしい顔つきの坊主が現れて、許可なく倉に立ち入ったこと、さらには無礼にも倉の中で寝たことを責めた。そして、本来ならば命を奪うところだが、非常時なので許し、今後は決して立ち入ることのないようにと言い残して姿を消した。驚いた書生は、たちまち倉を逃げ出した。以来、数原家では毎年決まった日に、倉の前で祭礼を執り行うようになったという。



虎狼狸(ころうり)
江戸時代の絵巻などに登場する日本の妖怪である。その名の通り、虎、狼、狸が合体したような姿をしている。当時江戸ではコレラが流行っており、病気の根源といわれ恐れられたのがこの妖怪である。名前は3つの動物の読み方と、コレラがなまったためによる。



篠崎狐(しのざきぎつね)
江戸時代の奇談集『梅翁随筆』に登場する化け狐。武州篠崎村(現・東京都江戸川区篠崎)に、4匹の悪戯狐が住んでいた。ある夏の日のこと。草原で狐たちが昼寝しているところへ、1人の行商人が通りかかった。商人は日頃の悪戯の仕返しとばかりに、大声で狐たちを脅かした。狐たちは飛び起き、慌てて駆け去っていった。その日の夕方。行商人が知人宅に立ち寄ると、その家の女房が亡くなったとのことであった。家の主人は野辺送り(亡くなった人を埋葬地まで見送ること)に行くと言い、行商人に留守を預けて家を出て行った。行商人がその家で主人の帰りを待っていたところ、女房の亡霊が現れ、行商人に噛み付いてきた。行商人は悲鳴を上げ、血を流しながら逃げ惑った。そこへ通りかかった農夫は、さてはあの悪戯狐に化かされたかと、行商人に水をひっかけたところ彼は正気に戻った。反省した行商人は、あの狐たちが昼寝していた場所へ行き、小豆飯と油揚げを備えて謝ったということである。



出世螺(しゅっせぼら)
江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある日本の妖怪。ホラガイが数千年を経て龍となったものとされる。『絵本百物語』によれば、螺の肉を食べると長生きをするといわれるが、実際にはそのようにして長生きした人の話は確認されていないため、これが由来となって嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう。


テンジ
八丈島に伝わる民話・昔話に登場する妖怪。かつて八丈島の山奥には、防災のための山小屋があったが、夜になるとここにテンジが現れ、小屋の番人の耳や足をつねるなどのいたずらをしていた。番人が驚いてテンジを怒鳴りつけても、テンジは「ヒャッ、ヒャッ」と笑いながら逃げて行くだけだった。ある晩、美しい少女が村の名主の娘を名乗り、ぼたもちの差し入れといって重箱を届けに来た。山番は、こんな夜に娘が1人で山を訪れるわけがない、テンジに違いないと考えた。重箱を受け取ると見せかけ、娘を小屋に引き入れようと手をつかむと、その手は竹で出来ていた。山番がナタで竹の手を斬り落とすと、テンジは悲鳴を上げて逃げていった。残された重箱にはぼたもちではなく、牛の糞が入っていた。翌晩、テンジが自分の手を求めて小屋へやってきたので、山番は小屋に残されていた竹の手を投げ付けてやった。テンジは手を受け取り、いつもの笑い声を上げて山へ帰って行った。その年、八丈島を大飢饉が襲った。山番の番人も飢えに耐えかね、小屋で死を待つばかりだった。ある夜、小屋に何かが投げ入れられたような音がした。よく見るとそこには、山芋や木の実がどっさりとあった。番人はテンジがくれた物と確信して礼を言うと、いつものようなテンジの笑い声と、山の方へ駆けて行く足音が聞こえた。番人はその食料の差し入れのおかけで、飢饉を乗り越えて生き延びたという。



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