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(全国妖怪文庫・第4弾「東西で比較!ご当地妖怪文庫ガイド」)京都妖界案内/佐々木高弘

kage

2014/10/06 (Mon)

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日本人の妖怪愛は限りなく深い。

歴史を見れば、古代から連綿として、絵に物語にと妖怪を愛し続けてきたのである。

そんな妖怪ダイスキDNAを呼び覚ましてくれる文庫本を紹介しよう。

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各地で生まれ、語り伝えられ、その地域の特徴を映す妖怪たち。

第2弾では、東西各地に伝わる妖怪をディープに知る文庫をご紹介。



アイコンりす今回のBook案内人・・・・Arika


西日本編


古代から近世にかけて日本の中心であった上方、古代王朝が存在したといわれる出雲、そして本土とは異なる歴史を歩んできた沖縄。悠々の時を刻んできた土地に生まれた妖怪たちが見せる万華鏡のような物語の美しさ、おもしろさを堪能しよう。


(全国妖怪文庫・第4弾「東西で比較!ご当地妖怪文庫ガイド」)・・・京都府
  京都妖界案内/佐々木 高弘

京都妖界案内 (だいわ文庫)京都妖界案内 (だいわ文庫)
(2012/06/10)
佐々木 高弘

商品詳細を見る


Arikaアイコン(小)1 雅な古都は、魑魅魍魎が跋扈する魔界。

「古地図」を片手に歩くうちに出来上がった京都異界地図。それは図らずも、雅の都の闇に蠢く魑魅魍魎たちの住所録になっていた。都を虎視耽々と狙う怨霊、跳梁する鬼や天狗たち、そして都人を悩ませた疫病神や百鬼夜行。歴史地理学を研究する著書の案内で京都を歩けば、1200年の都の裏の顔が見えてくる。




■主な『京都府』の妖怪

赤坊主(あかぼうず)
新潟県、京都府、愛媛県に伝わる妖怪。それぞれ伝承が異なる。柳原紀光の随筆『閑窓自語』に記述がある。日野一位資枝卿という人物が若い頃、仲間たちと共に夜更けまで酒を飲みつつ世間話を楽しんでいたところ、屏風の後ろが急に明るくなり、人の気配がした。屏風の裏を覗くと、燃え上がる炎の中に真っ赤な法師が立っており、周囲が怪しむ中で姿を消してしまった。正体は不明だが、家に吉事が起きることの前兆だという[2]。妖怪研究家・多田克己はこれを、東北地方の妖怪として知られる座敷童子に類するものとしている。


油坊(あぶらぼう)
滋賀県や京都府に伝わる怪火、または亡霊。名称は、油を盗んだ僧侶がこれに化けたという伝承に由来する。油にまつわる怪異は各地に伝承がある。江戸時代の怪談本『古今百物語評判』によれば、比叡山の全盛期に延暦寺根元中堂の油料を得て栄えていた者が、後に没落し、失意のうちに他界して以来、その家から根元中堂へ怪火が飛んでいくようになり「油盗人(あぶらぬすっと)」と呼ばれたという。噂を聞いた者がこれを仕留めようとしたところ、怒りの形相の坊主の生首が火炎を吹いていたという。


以津真天(いつまで、いつまでん)
鳥山石燕による江戸時代の日本の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある怪鳥。解説文に「広有 いつまでいつまでと鳴し怪鳥を射し事 太平記に委し」とあるように、『太平記』巻12の「広有射怪鳥事」に登場する怪鳥を描いたものである。『太平記』によれば1334年(建武元年)の秋、疫病が流行して病死者が多く出た頃、毎晩のように紫宸殿の上に怪鳥が現れ「いつまでも、いつまでも」と鳴いて人々を恐れさせていた。公卿たちは源頼政の鵺退治にちなんで弓の名手に退治させようと考え、依頼を受けた隠岐次郎左衛門広有は鏑矢で見事、怪鳥を射止めた。その怪鳥は顔が人間のようで、曲がったくちばしに鋸のような歯が並び、体はヘビのようで、両足の爪は剣のように鋭く、翼長は1丈6尺(約4.8メートル)もあったという。なお『太平記』にはこの鳥は「怪鳥」と記述されているのみで名前はなく、「以津真天」の名は鳥山石燕がこの逸話を『今昔画図続百鬼』に描く際、その鳴き声をもとに名づけたものとされる。また昭和以降の妖怪関連の文献では、戦乱や飢餓などで死んだ死体をそのまま放っておくと、この怪鳥が死体の近くに止まり、「死体をいつまで放っておくのか」との意味で「いつまで、いつまで」と鳴くもの、またはそうして死んだ者たちの怨霊が鳥と化したものとする解釈もある。


姥ヶ火、姥火(うばがび)
河内国(現・大阪府)や丹波国(現・京都府北部)に伝わる怪火。寛保時代の雑書『諸国里人談』、井原西鶴の雑話『西鶴諸国ばなし』、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』、『河内鑑名所記』、鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』などの古書に記述がある。京都府にも、保津川に姥ヶ火が現れたという伝承がある。『古今百物語評判』によれば、かつて亀山(現・京都府亀岡市)近くに住む老女が、子供を人に斡旋するといって親から金を受け取り、その子供を保津川に流していた。やがて天罰が下ったか、老女は洪水に遭って溺死した。それ以来、保津川には怪火が現れるようになり、人はこれを姥ヶ火と呼んだという。『画図百鬼夜行』にも「姥が火」と題し、怪火の中に老女の顔が浮かび上がった姿が描かれているが、「河内国にありといふ」と解説が添えられていることから、河内国の伝承を描いたものとされる。


応声虫(おうせいちゅう)
中国や日本の『新著聞集』や『閑田次筆』などの江戸時代の随筆集にある奇病、及びその病気を引き起こす怪虫。人間がこの病気に侵されると、高熱が10日間ほど続いて苦しんだ後、腹に出来物ができ、次第にそれが口のような形になる。この口は病気になった者の喋ったことを口真似するため、応声虫の名がある。喋るだけでなく食べ物も食べる。自ら食べ物を要求し、これを拒むと患者を高熱で苦しめたり、大声で悪口を叫んだりもする。『閑田随筆』には以下のような話がある。元文3年、応声虫に取り憑かれているという奥丹波の女性の話を見世物小屋の業者が聞きつけ、見世物に出そうと商談に訪れた。その女性の家を訪ねたところ、女性は確かに応声虫の病気を患っているらしく、腹から声を出していた。女性の夫が言うには、寺へ参拝に行った際、腹から出る声を周囲の人々が怪しみ、とても恥ずかしい思いをしたので、見世物など到底無理とのことだった。こうして業者の思惑は外れてしまったという。


大蜘蛛(おおぐも)
日本の怪談、随筆、民俗資料などにある巨大なクモの怪異。『狗張子』『諸皐記』『耳嚢』『宿直草』などの古書に記述があり[1]、『土蜘蛛草子』『平家物語』では土蜘蛛として知られる。寛文時代の怪談集『曾呂利物語』には「足高蜘の変化の事」と題し、ある山野に住む男のもとに夜、大蜘蛛が60歳ほどの老婆に化け、髪を振り乱して襲いかかり、男に刀で足を斬り落とされたという話がある。『狗張子』によれば、京都五条烏丸で、ある山伏が大善院という寺に泊まったところ、夜更けに激しい音とともに、天井から毛むくじゃらの手がのびて山伏の顔をなでたので、刀で斬り落としたところ、翌朝には仏壇のそばに2尺8寸(約84センチメートル)の大蜘蛛の死骸があったという。



和尚魚(おしょううお)
江戸時代の百科辞典『和漢三才図会』にある海の妖怪で、海坊主の一種。体長は5~6尺(約1.5~1.8メートル)。体はスッポンに似ており、頭部は「和尚」の名の通り頭髪がない坊主頭のように見える。これを捕らえて殺そうとすると、和尚魚は手を合わせて涙を流しつつ命乞いをするので「助けてやるが、その代わり二度と祟ってはいけない」と言い聞かせて海へ逃がすと良いという。また、同様に亀の体に坊主頭の人間の頭部を持つ海坊主として入亀入道(いりかめにゅうどう)があり、若狭湾に出現するといわれる。津村淙庵による江戸時代の随筆『譚海』では、これは和尚魚と同じものとされている。この姿を見ると不吉な出来事が起こるとされ、捕えてしまった場合、酒を飲ませて海へ放したという。妖怪探訪家・村上健司はこの和尚魚や入亀入道を、海亀を妖怪視したものと推測している。


朧車(おぼろぐるま)
鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にある日本の妖怪の一つで、牛車の妖怪。石燕の画図では、半透明の牛車の前面の、本来なら簾がかかっている場所に、巨大な夜叉のような顔、もしくは無念の形相をした女の顔を持つ姿で描かれている。解説文では、「むかし賀茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり。 出てみれば異形のもの也。 車争の遺恨にや。」とある。「車争い」とは、平安時代に祭礼の場などで、貴族たちが牛車を見物しやすい場所に移動させようとした際に牛車同士が場所を取り合ったことをいう。車争いといえば、平安中期の物語『源氏物語』において、六条御息所が祭り見物の牛車の場所取り争いで葵に敗れ、その怨念が妖怪と化したという話がよく知られていることから、この話が朧車のもとになったという説がある。また祭り見物にはかつて桟敷屋という小屋が用いられていたが、中世日本の説話集『宇治拾遺物語』には、桟敷屋に泊った男が怪異に出遭う話があり、これが朧車のイメージに繋がったとの説や、その『宇治拾遺物語」を含め、百鬼夜行(夜間に様々な妖怪が列をなして闊歩すること)に類する話が多くの古典資料に見られることから、そのような百鬼夜行の類を石燕が「朧車」という妖怪として描いたとの説もある。「朧車」の妖怪画は牛車の前面を顔が塞いでいるが、江戸中期の妖怪物語『稲生物怪録』には巨大な老婆の顔が戸口を塞ぐ場面があり、この構図が共通しているとの指摘もある。

昭和・平成以降の妖怪関連の文献においては、朧車とは車争いに敗れた貴族の遺恨が妖怪と化したものであり、京都の加茂(現・木津川市)の大路で、朧夜に車の軋る音を耳にした人が家の外に飛び出して見ると、異形の妖怪・朧車がそこにいた、と解釈されている。朧という言葉の通り、手で触れられるようなはっきりした存在感はなく、全体が半透明になっているともいう。

創作作品のキャラクターとして用いられることもあり、『ゲゲゲの鬼太郎』のエピソードの一つ『朧車』の舞台となった東京都調布市では、電柱には朧車の1コマが描かれ、調布が『鬼太郎』の故郷であることがアピールされている。


陰摩羅鬼、陰魔羅鬼(おんもらき)
中国や日本の古書にある怪鳥。経典『大蔵経』によれば、新しい死体から生じた気が化けたものとされる[1]。充分な供養を受けていない死体が化けたもので、経文読みを怠っている僧侶のもとに現れるともいう。

古典の画図においては鳥山石燕の画集『今昔画図続百鬼』に描かれており、解説文には中国の古書『清尊録』からの引用で、姿は鶴のようで、体色が黒く、眼光は灯火のようで、羽を震わせて甲高く鳴くとある。この『清尊録』には以下のような中国の陰摩羅鬼の話がある。宋の時代のこと。鄭州の崔嗣復という人物が、都の外の寺の宝堂の上で寝ていたところ、自分を叱る声で目を覚ました。見ると、前述のような外観の怪鳥がおり、崔が逃げると姿を消した。崔が寺の僧侶に事情を尋ねると、ここにはそのような妖怪はいないが、数日前に死人を仮置きしたという。都に戻って寺の僧に尋ねると、それは新しい死体の気が変化して生まれた陰摩羅鬼とのことだった。

日本では江戸時代の書物『太平百物語』に、『清尊録』に類似した陰摩羅鬼の話がある。山城国(現・京都府)で宅兵衛という男が寺でうたた寝をしていると、自分を呼ぶ声で目を覚ました。見るとそこには怪鳥がいた。驚いた宅兵衛が逃げ出して陰から様子を伺っていると、そのまま怪鳥は姿を消した。宅兵衛が寺の長老に尋ねたところ、新しい屍の気が陰摩羅鬼になると大蔵経にあり、最近寺に仮置きした死人によるものだろうということだった。陰摩羅鬼の名の由来は、仏教で悟りを妨げる魔物の摩羅(魔羅)に「陰」「鬼」の字をつけることで鬼・魔物の意味を強調したもの、もしくは障害を意味する「陰摩」と「羅刹鬼」の混合されたものとの説がある。


火前坊(かぜんぼう)
鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にある日本の妖怪。平安時代頃に葬送地として知られた京都の鳥部山に現れるという妖怪で、画図では炎と煙に包まれた乞食坊主の姿で描かれている。鳥部山は有力な皇族や貴族が葬られており、10世紀末頃には高僧たちがこの地で焚死往生を願って自らの体に火を放って命を絶ったといわれ、その信仰儀式を人目見ようとする庶民たちも多かったが、中には儀式に反し、現世に未練があるなどして極楽往生できなかった者もいたらしく、そうした僧の霊が僧形の怪火となって鳥部山に現れたものが火前坊とされている。また、江戸麻布の地名「我善坊谷」から鳥山石燕が創作したものとする異説もある。


帷子辻(かたびらがつじ)
京都市北西部にあったとされる場所。現在の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」付近と言われる。江戸時代の『都名所図会』によると、帷子ノ辻は「材木町の東にあり 上嵯峨下嵯峨太秦(うずまさ)常盤(ときわ)廣澤(ひろさわ)愛宕(あたご)等の別れ」とある。現在の帷子ノ辻から西北西(嵯峨野の北西、奥嵯峨)に位置する化野(あだしの)は鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに古来の風葬の地、葬送の地として知られる。


片輪車(かたわぐるま)
江戸時代の怪談などの古書に見られる日本の妖怪。炎に包まれた片輪のみの牛車が美女または恐ろしい男を乗せて走り、姿を見たものを祟るとされる。延宝年間の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」に記述がある。京都の東洞院通で毎晩のように片輪車が現れ、人々はみな外出を控えていた。ある女が興味本位で夜、家の扉の隙間から外を覗くと、牛車の車輪だけが転がって来て、車輪の中央には凄まじい形相の男の顔が小さな人間の足をくわえており「我を見るより我が子を見ろ」と叫んだ。驚いて女が我が子のもとへ行くと、子供は足を裂かれて血まみれになっていた。片輪車がくわえていたのは、その子供の足だったのである。


鬼童丸、鬼同丸(きどうまる)
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』などに登場する鬼。鬼童丸の話はこの『古今著聞集』がよく知られているものの、ほかにも武者絵本類や伝承などで様々に伝えられている。京都府福知山市雲原の口碑では、鬼童丸は酒呑童子の子として以下のように伝承されている。源頼光が酒呑童子を討ち取った後、酒呑童子に捕われていた女子供たちは故郷へと帰されたが、その中の1人の女は精神に異常を来たしており、故郷へ帰ることができず、雲原で酒呑童子の子供を産んだ。その子供は産まれながらにして歯が生えそろっており、7、8歳の頃には石を投げてシカやイノシシを仕留めて食べていた。やがてこの子供が成長して鬼童丸となり、父の仇として頼光たちを狙うようになったのだという。また軍記物語『前太平記』などによる別説では、酒呑童子が捨て童子であったという説と同様、もとは鬼童丸も比叡山の稚児であり、悪行が災いして比叡山を追われたため、山中の洞穴に移り住んで盗賊となったともいう。


鞍馬天狗(くらまてんぐ)
鞍馬山の奥の僧正が谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。牛若丸に剣術を教えたという伝説で知られる。鬼一法眼と同一視されることがある。


小袖の手(こそでのて)
鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』などの江戸時代の古書にある日本の妖怪。小袖(袖口の狭い高級な和服)の袖から、幽霊らしき女性の手が伸びたもの。『今昔百鬼拾遺』の解説文には「唐詩に 昨日僧裙帯上断腸猶繋琵琶絃とは 妓女亡ぬるを いためる詩にして 僧に供養せしうかれめの帯に なを琵琶の 糸のかかりてありしを見て、腸をたちてかなしめる心也 すべて 女ははかなき衣服調度に心をとどめて なき跡の小袖より 手の出しをまのあたり見し人ありと云」とある。遊女の死後、死皮(死者の衣服を寺に収める風習)となった小袖を見て、友人たちがその遊女の在りし日を偲んで悲しむ一方、当の遊女はむしろ、誰から身請されずに死ぬまで不自由な生活を強いられたことを悲しみ、身請の金を求めるあまり小袖から手が伸びているのであり[1]、江戸時代の吉原遊郭を風刺した創作と解釈されている。また、遊女がこの小袖を着飾りたかった願いが叶わず、その怨みによって小袖から手が伸びたもの、または小袖の持ち主だった女の生への執着心の妖怪化、付喪神(器物が化けた妖怪)の一種などともいわれる。妖怪を主題とした嘉永時代の狂歌本『狂歌百物語』にも「小袖手(こそでのて)」と題して描かれており、本来、死んだ人間の小袖は形見の品となったり、寺に納められて供養されるはずが、高級な小袖が売却され、成仏できない霊がその小袖に取り憑いたものと解釈されている。


衣蛸(ころもだこ)
京都府与謝郡に伝わる海の妖怪。その名前が示すようにタコの妖怪。外観は小さなタコと変わりないが、船が近づくと体を衣のように大きく広げ、人間も船も海の中へ沈めてしまうといわれ、人々に恐れられている。自分を捕らえようとする漁師をこのように襲うともいい、一説によれば体を広げたときの大きさは6畳ほどともいう。また、普段は貝殻の中に入って海の上を漂っているともいう。ちなみに実在のタコであり外洋で遊泳生活するムラサキダコも、足と足の間に膜を持ち、兵庫県竹野町の海岸などでは、地元民に「衣ダコ」の俗名で知られている。またムラサキダコに縁の近いカイダコ類は、同様に外洋で遊泳生活をし、雌は腕から貝殻を分泌してその中に包まっており、この貝殻の中で卵を保育する。


逆柱(さかばしら)または逆さ柱(さかさばしら)
日本の木造建築における俗信の一つで、木材を建物の柱にする際、木が本来生えていた方向と上下逆にして柱を立てることを言う。古来より逆柱にされた木は、夜中になると家鳴り等を起こすとも言われていた。また、家運を衰微させるほか、火災などの災いや不吉な出来事を引き起こすと言われており、忌み嫌われていた。妖怪漫画家・水木しげるによれば、逆さにされた柱からは木の葉の妖怪が出現する、もしくは柱自体が妖怪と化すともいう。井原西鶴の著書『西鶴織留』によれば、京都六角堂の前のとある家に住む夫婦がこの逆柱の怪異に悩まされており、家では毎晩のように梁が崩れるような音が響くので、遂には引っ越していったという。


七歩蛇(しちほだ、しちふじゃ)
浅井了意の怪異小説集『伽婢子』の中で、京都東山に出現したとされる奇怪な蛇の一種。体長4寸(約12センチメートル)ほどの小さい蛇だが、姿形は龍そっくりで、4本の足がある。色は真っ赤で鱗の間が金色に光り、耳は立っている。この蛇に噛まれた者は、その猛毒により7歩歩かぬ内に死んでしまうので、「七歩蛇」という名前がつけられたという。東山西の麓にある浦井という屋敷で、何匹もの奇怪な蛇が出現したのを退治したところ、ある日庭の木々が次々に枯れて倒れ、庭石も砕け散り、砕けた石の下からこの七歩蛇が出てきたとされる。


酒呑童子(しゅてんどうじ)
丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、部下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。


宗旦狐(そうたんぎつね)
京都市上京区の相国寺に伝わる化け狐。「宗旦」の名の通り、千家茶道の基礎を固めた人物・千宗旦に化けてしばしば茶席に現れたといわれる。


算盤坊主(そろばんぼうず)/算盤小僧(そろばんこぞう
京都府船井郡西別院に伝わる妖怪。夜、寺や神社の木の下で算盤を弾く坊主(小僧)姿のものといわれる。西別院村笑路(現:亀岡市)では、夜中に笑路の西光寺の近くを通ると、寺のそばにあるカヤの木の下に坊主の姿で現れ、木の下で盛んに算盤を弾き始めるものを「算盤坊主」と呼ぶ。タヌキの仕業ともいわれているが、その寺では、かつて計算を間違えて和尚に叱られた小坊主が、その木で首を吊って自殺したと言われており、その坊主の霊とも言われている。また、この西光寺の隣の素盞嗚神社でも、毎晩午前1時頃、境内の大木の下に少年の姿で現れて算盤の稽古を始めるものを「算盤小僧」という。一説によれば、この少年は西光寺の開山・萬安英種という和尚で、幼い頃に夜中に人知れず勉学に励んでいた姿だと伝えられている。



竹伐狸、竹切狸(たけきりだぬき)
京都府南桑田郡保津村大年(現・亀岡市)に伝わる狸の妖怪。山の竹藪の中に棲んでおり、竹を切る音を立てて人を化かす古狸。夜になると竹薮から「チョン、チョン」と竹の小枝を払う音が聞こえ、さらに「キィキィ」と根元を切る音がし、最後には「ザザッ」と竹が地面に倒れる音がする。夜が明けてからその竹薮に行っても、竹が切られた痕跡はないというものである。



玉藻前(たまものまえ)
平安時代末期に鳥羽上皇に仕えた二尾あるいは九尾の狐が化けたという伝説上の絶世の美女。玉藻御前(たまもごぜん)ともいう。


土蜘蛛(つちぐも)
本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である。しかし後代には、蜘蛛の妖怪とみなされるようになった。別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」[1]。八束脛はすねが長いという意味。なお、この名で呼ばれる蜘蛛は実在しない。海外の熱帯地方に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛のグループオオツチグモ科は、これらに因んで和名が付けられているが命名は後年近代に入ってからであり、直接的にはやはり無関係である。14世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。


釣瓶落とし(つるべおとし)/釣瓶下ろし(つるべおろし)
京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれる。大正時代の郷土研究資料『口丹波口碑集』にある口丹波(京都府丹波地方南部)の口承によれば、京都府曽我部村字法貴(現・亀岡市)では、釣瓶下ろしはカヤの木の上から突然落ちてきてゲラゲラと笑い出し、「夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい」と言って再び木の上に上がっていくといわれる。また曽我部村の字寺でいう釣瓶下ろしは、古い松の木から生首が降りてきて人を喰らい、飽食するのか当分は現れず、2、3日経つとまた現れるという。同じく京都の船井郡富本村(現・南丹市)では、ツタが巻きついて不気味な松の木があり、そこに釣瓶下ろしが出るとして恐れられた。大井村字土田でも、やはり釣瓶下ろしが人を食うといわれた。



手の目(てのめ)
鳥山石燕による江戸時代の画集『画図百鬼夜行』にある日本の妖怪。座頭姿で両目が顔ではなく両手の平に一つずつついている。『画図百鬼夜行』には解説文がないために詳細は不明だが、江戸時代の怪談集『諸国百物語』には「ばけ物に骨をぬかれし人の事」と題し、石燕が手の目のモデルにしたといわれる京都の怪談が以下のように記述されている[1]。ある男が七条河原の墓場に肝試しに行ったところ、80歳くらいの老人の化け物に襲われ、その化け物には手の平に目玉があった。男は近くの寺に逃げ込み、その寺の僧に頼んで長持ちの中にかくまってもらったところ、化け物は追いかけてきて、長持ちのそばで犬が骨をしゃぶるような音を立て、やがて消え去った。僧が長持ちを開けると、男は体から骨を抜き取られて皮ばかりになっていたという。


入内雀(にゅうないすずめ)/実方雀(さねかたすずめ)
平安時代の歌人である藤原実方の伝承にある怪鳥。藤原実方は一条天皇の侍臣でもある名高い歌人だったが、藤原行成に陰口を叩かれたために殿上で行成と口論になり、行成の冠を奪って投げ捨てるという失態を演じたため、京都から陸奥国(東北地方)へ左遷させられた。当時の陸奥は陸の孤島ともいうべき土地で、実方はこの仕打ちへの怨みと京都への想いを募らせつつ、失意の内に陸奥で没した。京都には実方の訃報が届くと同時に、奇妙な噂が流れ始めた。毎朝、京都の内裏の清涼殿へ1羽の雀が入り込み、台盤(食事を盛る台)の飯をついばんであっという間に平らげてしまうというのである。人々はこれを、京に帰りたい一心の実方の怨念が雀と化した、もしくは実方の霊が雀に憑いたといって、内裏に侵入する雀であることから「入内雀」、または「実方雀」と呼んだ。またこの雀は農作物を食い荒らしたともいい、人々はこれを実方の怨霊の仕業といって大いに恐れたという。同じ頃に、藤原家の大学別曹である勧学院でも異変があった。勧学院の住職・観智上人の夢の中に雀が現れ、自らを京恋しさに雀と化してやって来た実方だと名乗り、自分のために誦経するようにと告げたのである。翌朝に境内の林で1羽の雀の死骸を見つけた上人は、実方の変わり果てた姿に違いないと考え、霊を弔うために塚を築いた。後に勧学院は更雀寺(俗称・雀寺)と改名し、現在では京都の左京区に場所を移している[4]。火災が続いたこともあって規模は次第に縮小化され、もとの勧学院の面影は薄れつつあるが、前述の塚は雀塚と呼ばれて現存しており、現在でもなお実方のための供養が続けられている。


鵺、鵼、恠鳥、奴延鳥(ぬえ)
日本で伝承される妖怪あるいは物の怪である。『平家物語』などに登場し、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もある。描写される姿形は、北東の寅(虎)、南東の巳(蛇)、南西の申(猿)、北西の乾(犬とイノシシ)といった干支を表す獣の合成という考えもある。「ヒョーヒョー」という、鳥のトラツグミの声に似た大変に気味の悪い声で鳴いた、とされる。映画「悪霊島」(原作 横溝正史)のキャッチフレーズ、「鵺の鳴く夜は恐ろしい」とはこのことである。一説には雷獣である。平安時代後期に出現したとされるが、平安時代のいつ頃かは、二条天皇の時代、近衛天皇の時代、後白河天皇の時代、鳥羽天皇の時代など、資料によって諸説ある。


白蔵主(はくぞうす)
日本の妖怪の一つで、キツネの妖怪。江戸時代の奇談集『絵本百物語』に「白蔵主」と題した奇談があり、京都府京都市にある大徳寺の塔頭・龍源院にも「白蔵主」の屏風がある。そのほか、寛保時代の雑書『諸国里人談』巻五にも「伯蔵主」(沢蔵司、澤蔵司)と題し、狐が僧に化けた話がある。京都の龍源院には僧の姿のキツネを描いた屏風がある。日本画家・鈴木松年が、永徳年間の堺で少林寺の僧・白蔵主の飼っていたキツネが吉凶を告げたという逸話をもとに描いたといわれるもので、龍源院に収められたのには、以下のような経緯がある。

1960年(昭和35年)。大阪府に住む人物が龍源院を訪ねた。その者が言うには、家業不振が続くので、行者に見てもらったところ、もし家にキツネを描いた掛け軸や屏風があれば、そのキツネは修行中の身でもっと修行をしたがっているので、早くどこかの寺に収めるようにと言われたという。家には確かに堺の伝説を描いた白蔵主の屏風があったが、収める先の見当がつかなかったところ、行者はキツネの望む寺が京都にあるかもしれないと助言した。そこで京都まで来て歩き回ったところ、龍源院の前で足が動かなくなり、意を決して訪ねたとのことだった。龍源院でも、かつての和尚が下間に狐窟(こくつ)と銘した逸話があり、キツネと少なからず縁があったため、龍源院の住職は、キツネの屏風に因縁を感じ、申し入れを承諾した。以来、元の持ち主だった家は平穏に暮らすことができた。この白蔵主の屏風はその後も、龍源院の下間「狐窟」にあり、一般公開されている。


橋姫(はしひめ)
橋にまつわる日本の伝承に現れる女性・鬼女・女神である。主に古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として祀られている。古くは水神信仰の一つとされ、橋の袂に男女二神を祀ったことが始まりともいわれている。橋姫は嫉妬深い神ともいわれ、橋姫の祀られた橋の上で他の橋を褒めたり、または女の嫉妬をテーマとした『葵の上』や『野宮』などの謡曲をうたうと、必ず恐ろしい目に遭うという。これは、土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女性であるために嫉妬深いという説に転化したもの、もしくは「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する、などの説がある。橋姫の中でも有名なものが、京都府宇治川の宇治橋に祀られる宇治の橋姫であり、他に大阪市淀川の長柄橋、滋賀県瀬田川の瀬田の唐橋などに祀られていることが知られる。


羅城門の鬼、羅生門の鬼(らしょうもんのおに)
平安京の正門・羅城門に巣食っていたといわれる鬼。平安時代の謡曲『羅生門』などに登場する。源頼光が酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井(または四天王の1人・卜部季武)が、羅城門に鬼がいると言い出した。四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かった。九条通に出て羅城門が正面に見えてきた頃、急に激しい風に見舞われ、馬が動かなくなった。綱が馬から降りて羅城門へ向かうと、背後から現れた鬼に兜をつかまれた。すかさず綱が太刀で斬りつけたが、逆に兜を奪われた。綱の太刀と鬼の鉄杖が激しくぶつかり合った末、綱はついに鬼の片腕を斬り落とした。鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行ったという。

『平家物語』剣の巻にある一条戻橋の鬼の話では、綱が鬼の腕を斬り落とす場面の舞台は一条戻橋であり、この後に鬼が綱の乳母に化けて腕を奪い去るとある。謡曲『羅生門』は『平家物語』で綱と鬼との戦いまでの話をもとに、舞台を一条戻橋から羅城門に変えて創作されたものとされ、その後の鬼の報復の話は謡曲では『羅生門』とは別作品の『茨木』になっている。このことから、別々の鬼である羅城門の鬼と茨木童子がしばしば同一視される。


輪入道(わにゅうどう)
鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある日本の妖怪。輪入道は自分の姿を見た者の魂を抜いていき、「此所勝母の里」と書いた紙を呪符として家の戸に貼ると、輪入道が近づくことができないという意味である。「此所勝母の里」とは、中国の儒家の始祖・孔子の門人である曾子が「母に勝つ」の名を嫌って勝母の里に足を踏み入れなかったという『史記』「鄒陽列伝」での逸話が由来とされている。石燕の輪入道は、1677年(延宝5年)刊行の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」で、京都の東洞院通に現れたという車輪の妖怪「かたわ車」のことを描いたものとされており、『今昔画図続百鬼』で別々の妖怪として描かれている片輪車と輪入道を同一のものとする解釈もある。『今昔画図続百鬼』の輪入道は男性、片輪車は女性として描かれているが、1743年(寛保3年)の雑書『諸国里人談』の刊行から片輪車が女性として描かれ始めており、『諸国百物語』の刊行年である1677年を起点として、同一のものである片輪車が、片輪車と輪入道という2つの妖怪に分岐したとの説もある。
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