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(4.5月特集)『古典』古くて良いもの〈古典芸能〉文楽編

kage

2017/05/10 (Wed)

2017年4月‐5月《前半》特集本
古典1a

堅苦しくて難しいという印象でも、

奥が深くて知れば知るほど面白くなってくるのが「古典の魅力」です。

現代向けに編集された本を案内役に、歴史をさかのぼってみませんか?


アイコンりす今回の書籍案内人・・・・Arika


〈古典芸能〉文楽編

日本の古典芸能。

今に伝える技を楽しむべく、文楽に注目した本を紹介。


淡路国出身の初世植村文楽軒を始祖とする文楽座によって演じられた、大阪を本拠とする人形浄瑠璃。

2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っています。

1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。また、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[2]の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、2009年9月の第1回登録で無形文化遺産に登録された。

人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本の伝統芸能で、浄瑠璃と人形によって演じられる人形劇。明治以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある。



私はまだまだ、お人形あっての文楽です。
 あやつられ文楽鑑賞/三浦しをん(著)

あやつられ文楽鑑賞/三浦 しをん

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あやつられ文楽鑑賞 (双葉文庫)/三浦 しをん

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アイコンりすあやつられ文楽鑑賞/三浦しをん(著) 【2017/04/08】


これぞ三位一体の饗宴
 豊竹咲甫大夫と文楽へ行こう/豊竹咲甫大夫(著)

豊竹咲甫大夫と文楽へ行こう (旬報社まんぼうシリーズ)/旬報社

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アイコンりす豊竹咲甫大夫と文楽へ行こう/豊竹咲甫大夫(著) 【2017/04/10】




太夫・三味線・人形の織りなす華やかな文楽の世界
挿入されている写真がどれも素敵で、人形の良い表情が出ている。

 新版 あらすじで読む名作文楽50選/高木秀樹(監修) 青木信二 (写真)

新版 あらすじで読む名作文楽50選 (日本の古典芸能)/世界文化社

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アイコンりす新版 あらすじで読む名作文楽50選/高木秀樹(監修) 青木信二 (写真) 【2017/05/06】




子ども向けの文楽入門書、
人形の使い方や決まり事などコンパクトに写真入りで教えてくれる。

 新版 日本の伝統芸能はおもしろい 桐竹勘十郎と文楽を観よう
   /小野 幸恵(著) 桐竹勘十郎(監修)


新版 日本の伝統芸能はおもしろい 桐竹勘十郎と文楽を観よう/岩崎書店

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アイコンりす新版 日本の伝統芸能はおもしろい 桐竹勘十郎と文楽を観よう /小野 幸恵(著) 桐竹勘十郎(監修) 【2017/05/07】




「文楽」に懸ける男たち・勘十郎&玉女の「文楽」案内本
 文楽へようこそ/桐竹勘十郎・吉田玉女(著)

文楽へようこそ (実用単行本)/小学館

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アイコンりす文楽へようこそ/桐竹勘十郎・吉田玉女(著) 【2017/05/08】




赤川さんの広い視野からの素晴らしい文楽案内。
入門書とはいいながら、結構深いレヴェルの高い指摘が散見されます。

 赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い/赤川次郎(著)

赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い (小学館文庫)/小学館

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アイコンりす赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い/赤川次郎(著) 【2017/05/09】


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■文楽とは
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文楽(ぶんらく)は、淡路国出身の初世植村文楽軒を始祖とする文楽座によって演じられた、大阪を本拠とする人形浄瑠璃。2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っている。

1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。また、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、2009年9月の第1回登録で無形文化遺産に登録された。

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■人形浄瑠璃とは
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大阪で生まれ、大阪の庶民に育まれてきた「人形浄瑠璃文楽」。
2003年にはユネスコの「世界無形遺産」にも登録され、日本国内だけでなく世界中からも注目されています。

「文楽」は、耳で聞く語り物音楽の「浄瑠璃」と視覚に訴える「人形」という歴史的には全く別々に発達してきたものが、十六世紀末に偶然結びついて成立した芸能です。「浄瑠璃」には多くの流派が生まれましたが、十七世紀後半、大阪で竹本義太夫が「義太夫節」を始めてからはこれが人気の中心となり、「人形浄瑠璃」は大阪の町人文化を背景にして隆盛、発達を遂げます。十八世紀半ばには全盛期を迎えますが、やがて衰退。十九世紀に入ると興行師植村文楽軒が現れこれを建て直し、いつしか「文楽」が「人形浄瑠璃」の代名詞となり、現在に至っています。「人形+浄瑠璃=文楽」ということになるわけです。

言葉による日本の伝統音楽は「歌う」芸能と「語る」芸能とに二分されます。前者は情景や心情を抒情的に美しく歌い上げるもので、「長唄(ながうた)」や「地歌(じうた)」など。後者は物語の内容を正確に伝えることを第一とした叙事的なもの(語り物)で、琵琶を伴奏に使う「平曲(へいきょく)」や文楽で用いられる義太夫節などがこれにあたります。

義太夫節(浄瑠璃)は、物語を語る「太夫(たゆう)」と楽器の「三味線」とで成立します。太夫は複数の登場人物のセリフだけでなく、その心理や情景までも一人で表現しなければなりません。三味線は、棹が太く胴や撥も大きい「太棹(ふとざお)」を用います。「太棹」は音も大きく、重々しく響きのある音色に特徴があります。台本(戯曲)に書かれていることを正確に表現するために、「語り」の音楽である義太夫節がどのような構造になっているのか、また太夫や三味線弾きは、どんな技法を用いてそれを表現しているのでしょうか。また人形というとどうしても「糸操り」(マリオネット)を連想し、子供向けのものと思いがちですが、文楽の人形は頭が小さく、大人の姿を表現していることからも分かるように、あくまでも大人のための人形芝居です。人形浄瑠璃が成立した当初は一人で一体の人形を遣う「一人遣い」が主流でしたが、十七世紀末に三人で遣う「三人遣い」が考案され、表現方法が飛躍的に向上します。人形をいかにして生きた人間のように見せるか、また生身の人間ではなく人形でなければ表現できないものとは何なのでしょうか。

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■文楽の歴史
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「浄瑠璃」とはもともと仏教用語で美しい玉のこと。万物が金、銀、珠玉からなる薬師如来の浄土が浄瑠璃世界で、その薬師如来の申し子とされた美しいお姫様(浄瑠璃姫)と奥州へ下る牛若丸(源義経)との恋物語が十五世紀(室町時代半ば)に大流行し、いつしかこの種の語り物は「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。この頃は、琵琶の伴奏や扇拍子によって語られていたようですが、十六世紀に入ると、琉球から渡来した楽器を改良して「三味線」が考案され、浄瑠璃の伴奏楽器として用いられるようになります。

「人形」の歴史は古く、神の依り付く「依代(よりしろ)」、あるいは埴(はに)輪(わ)に代表されるような人間の代わりをするものとして、古代から人々の信仰と結びつく形で生活の中に入り込んでいました。やがてこの人形を遣ってちょっとした芸を見せて全国を旅する者(傀儡師(くぐつまわし)、人形廻し)が出現し、西宮(兵庫県)の夷(えびす)神社を本拠とする芸人の集団も発生しました。室町時代の屏風絵などには、首から提げた箱の上で人形を舞わせている傀儡師の姿などが描かれています。

この「人形」と「浄瑠璃」とが十六世紀末に出会い、「人形浄瑠璃」が成立します。この頃は「操り浄瑠璃」「操り芝居」とも言われ、十七世紀になると関西から江戸にも伝わり、「浄瑠璃」にも多くの流派が現れます。「人形」には糸操りもありましたが、日本人は農耕民族だからでしょうか、腰が据わって大地をしっかりと踏みしめる形の方が好まれたようで、主流は手で直接人形を操る手操りでした。十七世紀、徳川政権が安定するにともない人形浄瑠璃は大流行し、説経節によるものや、江戸では勇壮な金平(きんぴら)浄瑠璃による操り浄瑠璃が全盛を極めます。

そのような中で竹本義太夫は、旧来の浄瑠璃各派の長所を取り入れてあらたに「義太夫節」を興し、貞享元年(1684)大阪・道頓堀に義太夫節による人形浄瑠璃の劇場「竹本座」を旗揚げします。やがて浄瑠璃作者の近松門左衛門と提携して数々のヒット作を生み出すようになり、大阪の人たちの人気を独占します。その勢いは、義太夫節以前を「古浄瑠璃(こじょうるり)」と呼ぶほどで、これ以降とくに大阪では「浄瑠璃」というのは義太夫節を意味するようになったくらいです。

「浄瑠璃」は源平合戦など過去の歴史上の事件を題材とすることが大原則でしたが、近松は江戸時代に町の中で実際に起こった事件に取材した浄瑠璃、つまり江戸時代の現代劇にチャレンジします。元禄十六年(1703)、大阪・曽根崎で起こった若い男女の心中(情死)事件に取材した「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」が、事件からわずか一ヶ月後に竹本座で上演され、大当りをとります。(江戸時代当時の)現代に生きる人たちの心情をリアルに描きそれを人形浄瑠璃で上演するという手法は、観客にとっても新鮮なものだったのでしょう。武家、公家の世界を題材とした「時代物(じだいもの)」に対して、「世話物(せわもの)」という新しいジャンルを確立しました。この頃、竹本義太夫の弟子が豊竹若太夫を名乗って「豊竹座(とよたけざ)」を創設しましたが、当初はなかなか経営が難しかったようです。

近松より二歳年上の竹本義太夫が正徳四年(1714)に64歳で亡くなると、竹本座には後継者問題が起こります。竹本座は、弱冠25歳の若手竹本政(まさ)太夫を義太夫の後継者に指名し、近松はこれに「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」を書き与えます。この作品は三年越し17ヶ月のロングランを記録する大ヒットとなり、竹本座はこの危機を乗り越えました。

豊竹座の経営も安定し、道頓堀の西(竹本座)と東(豊竹座)に分かれ、西は質実剛健、東は優美華麗な作風と曲風で競い合い、大阪市中の人気を二分します。とくに近松が亡くなった後、浄瑠璃を複数の作者が分担して執筆するようになる(合作(がっさく)制度)と、両座の特徴はいっそう顕著になり、竹本座と豊竹座の二座対抗時代、いわゆる「竹豊(ちくほう)時代」を迎えます。

人形は初めは一体の人形を一人で遣う「一人遣い」でしたが、台本(戯曲)の指定が細かくなって複雑な動きを要求されるようになり、また小さい人形では劇場(舞台や客席)の大きさにも限界があることなどから、一体の人形を三人で遣う「三人遣い」が考案されます。享保十九年(1734)の「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」に出てくる与勘平(よかんぺい)、野勘平(やかんぺい)という二人の奴(やっこ)の人形がその始まりとされていますが、徐々に三人遣いに移行し、遅くとも十八世紀半ばまでにはほぼ現在の大きさと構造になったものと思われます。

十八世紀中頃、竹本座では「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」という、後に「浄瑠璃の三大名作」と呼ばれ、現在でも文楽や歌舞伎でしばしば上演される作品が相次いで初演されました。当時の大阪の演劇界の様子を伝える『浄瑠璃譜(じょうるりふ)』という本には「操り段々流行して歌舞妓は無が如し」と記されており、歌舞伎をしのぐ人気があったことがうかがえます。

十八世紀後半になると、人形浄瑠璃の行く末には陰りが見えてきます。傑出した浄瑠璃作者が少なくなったことによる新作の不振、歌舞伎の方の巻き返しや演者の側にも世代交代が進んだことなどが原因でしょうが、決して興行数が減ったわけではないので、人気がなくなったというよりも、以前ほどのバイタリティを失ったと言った方が良いかも知れません。やがて豊竹座、竹本座は歌舞伎芝居に劇場を明け渡さざるを得なくなり、道頓堀から撤退、大阪市内に分散してしまいます。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」や「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」を書いた浄瑠璃作者近松半二(ちかまつはんじ)の孤軍奮闘もありましたが、十九世紀初めまで混迷は続きます。

淡路出身の興行師植村文楽軒は、大阪・高津橋南詰(現在の国立文楽劇場の近く)に人形浄瑠璃の芝居小屋を建て、やがて稲荷神社の境内に移転します。稲荷神社の文楽軒の芝居は安定した興行を続け、新作よりも十八世紀に初演された作品を再演して演技・演出を練り上げ、古典芸能としてより完成された舞台を作ろうと試みました。人形の早替りや話題性に富むスペクタクルな演出も積極的に取り上げ、大阪の人たちの関心を再び人形浄瑠璃に向けることに成功しました。「文楽軒の芝居」がいつしか「文楽」として人形浄瑠璃の代名詞となっていったのもこの時期です。

天保十三年(1842)、水野忠邦による「天保の改革」は寺社の境内における興行を禁じたため、人形浄瑠璃のみならず当時の演劇界に壊滅的なダメージを与えます。逆境にもめげず、文楽軒(三代目。後の文楽翁(ぶんらくおう))はこの時期を堪え忍び、11年後には分散した一座を再び呼び集めて稲荷神社への復帰を果たします。明治五年(1872)、文楽の芝居は松島に移転し、ここで初めて正式に「文楽座」と名乗り、名実共に「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞として認知されることになりました。

明治十七年(1884)、文楽座は御霊神社境内に移転。同年、文楽座系統以外の人たちが集まって「彦六(ひころく)座」が開場し、かつての竹豊二座対抗時代を思い起こさせる「文楽彦六対抗時代」が始まり、明治期の文楽黄金時代を迎えます。明治四十二年(1909)には「文楽」は植村家から松竹合名会社(現在の松竹株式会社)に譲渡され、近代的な経営によって支えられることになりました。彦六座系統の各座はよく奮闘し大正期まで持ちこたえますが、以後は文楽座に吸収されることとなり、この時点で「文楽」は人形浄瑠璃の歴史と伝統を継承した唯一の劇団・劇場として残りました。大正十五年(1926)、御霊文楽座が焼失。明治・大正の文楽黄金時代の終焉を象徴する出来事でした。

道頓堀弁天座(べんてんざ)での仮興行を経て、昭和五年(1930)、大阪・四ツ橋の近くに「四ツ橋文楽座」が竣工します。重厚で豪華な内装を持つ洋風建築による劇場で、客席も椅子席となり、公演ごとに義太夫の詞章が記載された冊子(現在の「プログラム」)も発行されて、あらゆる面で近代的な興行となりました。戦前の大阪の市民層に支えられながら、四ツ橋文楽座ではほぼ毎月文楽が上演され、充実した豊かな時代を過ごします。しかし戦争の陰は少しずつ忍び寄ってき、他のジャンル同様、いわゆる「肉弾三勇士(にくだんさんゆうし)」の話など時局を敏感に反映した作品も取り上げられるようになります。昭和二十年(1945)3月13日深夜の大阪大空襲で文楽座は炎上しますが、真っ先に復興を果たし(文楽公演は同年7月、文楽座は翌年2月)、文楽が当時の大阪市民の心の拠りどころであったことがうかがえます。

戦後・復興期の文楽には、昭和天皇の観劇(天覧)などの明るい話題もありましたが、組合運動に端を発した対立から文楽が二派(後の「因(ちなみ)会」と「三和(みつわ)会」)に分裂してしまうという不幸な出来事が起こります。財閥の解体によって戦前の文楽を支えていた層の経済基盤も崩れ、厳しい社会情勢と闘いながらも、文楽の人たちはその灯を守り続けて来ました。この間、昭和三十年(1955)には国から重要無形文化財にも指定され(総合指定)、また新作や近松物の復活、地方への普及活動など、分かりやすく親しみやすい文楽を目指した様々な試みもなされました。

昭和三十八年(1963)、分裂していた二派が合同するのを機に松竹は文楽を手放し、財団法人文楽協会が設立されて、現在に至っています。

昭和四十一年(1966)には東京に国立劇場が開場し、小劇場という文楽にとっては理想的な舞台を得、ひとつの作品をほとんど全段通して上演する「通し狂言」を中心に文楽本来の魅力をアピールしてきました。同四十七年(1971)からは文楽協会と国立劇場が協力して後継者を養成する制度も始まります。文楽の本拠地大阪に国立劇場を―という、大阪府、大阪市、関西財界などの根気強い要望が実を結び、同五十九年(1984)春には国立文楽劇場が開場します。義太夫が道頓堀で旗揚げをしたちょうど三百年後に、道頓堀にほど近い日本橋(にっぽんばし)に建てられた国立文楽劇場は、文字通り文楽のホームグラウンドとして、様々な試みが行われています。文楽劇場開場二十周年を目前にした平成十五年(2003)11月、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によって世界無形遺産(正確には「人類の口承及び無形遺産の傑作」)の宣言がなされたことにより、日本国内はもとより世界中の人たちから注目を集めることとなりました。

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■三業とは
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文楽は男性によって演じられる。太夫、三味線、人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の演芸である。客席の上手側に張りだした演奏用の場所を「床」と呼び、回転式の盆に乗って現れた太夫と三味線弾きが、ここで浄瑠璃を演奏する。対して人形のことを「手摺」と呼ぶが、これは人形遣いの腰から下が隠れる板のことを手摺ということから。

太夫
浄瑠璃語りのこと。1人で物語を語るのが基本で、情景描写から始まり多くの登場人物を語り分けるが、長い作品では途中で別の太夫と交代して務める。掛け合いの場合には複数が並ぶ。浄瑠璃には多くの種別があるが、文楽では竹本義太夫を創始者とする義太夫節が用いられる。なお、太夫名(芸名)は、1953年に因会(ちなみかい)、翌年に三和会(みつわかい)が「大夫」と表記を変更したが、2016年に元来の表記である「太夫」に戻した。また「若太夫」のように「太夫」の前が2拍の場合は「たゆう」、「義太夫」「越路太夫」のように2拍以外の場合は「だゆう」と読む。

三味線
太棹の三味線を使う。座り方は正座であるが、膝を広めに座り両足の間に完全に尻を落としている。響きが重いことから「ふと」(⇔細棹は「ほそ」)ともいう。

人形遣い
古くは1つの人形を1人の人形遣いが操っていたが、1734年に『芦屋道満大内鑑』で三人遣いが考案され、現在では3人で操るのが普通である。主遣い(おもづかい)が首(かしら)と右手、左遣いが左手、足遣いが脚を操作する。「頭(ず)」と呼ばれる主遣いの合図によって呼吸を合わせている。黒衣姿だが、重要な場面では主遣いは顔をさらすこともあり「出遣い」と呼ばれる。左・足遣いは顔を隠している。






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